ケアする人をケアする

介護・育児中のご家族、それを支える専門職、そんな「誰かをケアする人」のケアを考えます。

1枚のレポートが教えてくれたことー親が終末期を迎えた教育期の家族ケア、一般病棟での実践

ある急性期病院の消化器内科病棟に勤めるナースが書いてくれた一枚の事例のレポートに目が留まった。

事例を加工し、フィクションとして、まずはそのレポートの概略を紹介しよう。

 

山内由美さん(仮名)は48歳の女性。

1年前にすい臓がんと診断され、手術、そして化学療法を受けた。しかし、ほどなく骨や周辺臓器への転移がわかった。

医師から厳しい現状を説明された山内さんは、夫と一人娘との生活を大切にしたいと自宅への退院を希望した。

 

自宅では、訪問診療や訪問看護サービスを受け、麻薬や他の鎮痛剤の内服と座薬の使用により、幸いなことに痛みは生活に支障がない程度にはコントロールできていた。

しかし、自宅での生活が半年を過ぎたころから、食事が徐々に喉を通らなくなり、全身のだるさでほぼベッドで寝て過ごすようになった。

山内さんは、食事が食べられるようになったらまた自宅に戻ってくるつもりで、周囲の再入院の勧めに応じた。

 

入院直後の山内さんは、入院したという安心からか安堵の表情がみてとれ、症状を軽減する治療も効果を上げて、ゆっくりと身の回りことができるところまで一時的に回復した。

しかし、安心したのもつかの間、その後間もなく山内さんは肺炎を併発。胸水・腹水が溜まり、身体を動かすと息が苦しくなり酸素が必要な状況となった。そして、再び食事が摂れなくなった。

その後、全身がひどく浮腫み、排泄や清潔、更衣などもすべてベッド上で介助が必要となった。苦痛となる数々の症状に対しては、各種の薬剤や酸素の増量などで対応が図られていたが、残念なことにあまり効果はみられなかった。山内さんは、身の置き所のない苦痛を訴えることが多くなり、「なんでもいいから痛みをとって、麻薬を増やして!」という言葉しか聞かれない日もあった。

 苦痛が増すにつれ、山内さんの不安や恐怖は日に日に増すばかりであった。感情も不安定となり、涙する姿もよく見られるようになった。看護師がベッドサイドで寄り添う時間も増えていった。

 

 そんなある日、山内さんはナースに、「あの日から娘が面会に来なくなっちゃった」と告げ、涙を流した。山内さんがナースに語った事の仔細はこうである。

その10日ほど前の日曜日、10歳の娘さんが夫に連れられて面会に来た。その日は朝から痛みが強かったが、それでも娘の面会が嬉しくて最初はベッドサイドの顔の見える位置で娘と話しをしていた。

しかし、徐々に痛みは我慢できないほどに強くなってきた。

ナースコールを押してナースを呼び、「痛い、痛い!」と訴えていたら、その時に強烈な腹痛とともに突然、強い便意を感じ、痛みと便意ですっかりパニックになった山内さんは、娘の前で、「早く、早く!出ちゃう・・」と大騒ぎをしてしまったとのこと。

ベッドサイドの足元の遠い位置に佇んでいた娘さんの姿は、気づくと見えなくなってしまっていたという。

 

その出来事をナースに話した山内さんは、「娘に会いたい。でも、こんな姿じゃ、イヤよね・・」と呟いた。

そして、娘さんは長い間の辛かった不妊治療の末にやっと授かった一人娘であり、母親として娘にやってあげたいことがたくさんあるのに本当に悲しい」とハラハラと涙を流した。

ナースは、山内さんの母親としての悲しさや切なさが伝わって来て、何と言ったらいいのか言葉がみつからず、「娘さんは、幼いながらもお母さんが頑張っているのはわかっていると思いますよ」と言うのが精いっぱいだった。

 

ナースは、その後面会に来た夫に話しを聞いてみた。夫は、50歳代。会社員として多忙な合間をぬってよく面会に来てくれており、山内さんの在宅療養中も、万全のサポートをしてくれた人である。

娘さんのことに話題を向けると、夫は弱り切った表情で、「面会に誘っても『痛いのもうんちも我慢できなくなっちゃって・・お母さんに会いたくないし、見たくない』といって・・。本当はきっと娘も一緒にいたいんでしょうけど、なかなか難しいです」「娘には、お母さんのお腹にがんができているとは話してあるんですねど、それ以上のことは・・」とぽつりぽつりと話した。

ナースは、「そうですね。なかなか、難しいですよね」と言葉にしたものの、それ以上夫との会話は続かなかった。

 

そうこうしている間に麻薬が増量され、昏睡状態となって山内さんは2週間後に亡くなられた。

結局、山内さんがはっきりと意識があるうちに娘さんと会うことはできなかった。

レポートは、「最期の時間、家族で過ごせるようにするにはどうしたらよかったのか、どんな声をかければ、夫は娘さんにアプローチすることができたのかを学びたい」と締めくくられていた。

 

このレポートに最初に目を通したとき、何とも言えないやりきれなさを感じた。ただただ切なく、思っただけで胸が苦しくなった。

長期間の不妊治療の末に授かった娘さんを、このご夫婦がどんな気持ちで育ててきたのか、山内さんは、娘さんにしてあげたかったこと、最後に伝えたかったことがあったに違いない。

生きる支えであった娘から「会いたくない」と自分が遠ざけられる悲しみは、いかばかりであっただっただろう。

山内さんは、ただでさえ自分の病気によって娘に順風満帆な人生を遅らせることができない申し訳なさを感じておられるだろうに、自分の言動によって娘をひどく傷つけてしまった辛さ、無念さ、後悔は、筆舌に尽くしがたいものであろう。

山内さんにとって、娘が面会に来ないという事実は、自分のこれまでの人生の価値を疑ってしまうような魂の痛みを引き起こしていたのではないだろうか。

 

そして、10歳の娘さんの体験を想うと、これまた、いてもたってもいられない気持ちに襲われる。

明るく優しかった、大好きだった母親が、痛みによってコントロールを失った姿を前にして、大きなショックを受けたことだろう。

10歳という思春期に入りかけた少女に突然襲った、「母親がうんちを漏らす」という現実は、到底受け止め切れないものだったに違いない。

苦しむ母親を前に、娘さんは何を感じたのだろう。父親には、「もう会いたくない、見たくない」と話していたようだが、それは母親が嫌いになったのではなく、「お母さんがかわいそうで見ていられない」気持ちや、「何もしてあげられない自分」を再確認することが苦痛だという気持ちも含まれているのかも知れない。

そして、もしかしたら、自分が「いい子」でなかったために、母親が病気になった。母親が病気になったのも、そして治らないのも、自分のせいだと自分を責めているのかも知れない。

彼女は、そんな胸の内を、父親にも誰にもうまく伝えられず、独り苦しんでいるような気がしてならない。

「大丈夫だよ」と彼女を優しく抱きしめる人が必要なのに・・。

 

また、ご主人も苦しんでおられただろう。

50歳代前半で妻を亡くすであろう危機を前に、「妻と娘を支えなくては」と自分を鼓舞しつつ、日々を乗り切っておられたに違いない。

ご主人もまた、苦しむ妻を前に何もできない無力感や悲しみ、そしてなぜ妻に、なぜ自分たちにと答えの出ない問いを抱えつつ、家事に仕事に面会にと、奔走しておられたことだろう。

そして起こった妻と娘との問題。

娘が面会に行くことが、妻にとっては何よりの薬。何としても娘を面会に連れて行きたい。しかし、無理強いすることもできない。そんな現実の前で、夫もさぞや苦しんでおられたのではないだろうか。

もっと自分がうまく立ち回れば、娘の気持ちを変えることができるのかも知れないと思いつつも、思春期の入り口に差しかかった娘とのコミュニケーションは、50代の自分にはどうしようもなく難しい。

夫として、父親としての有用性を問われるような現状の前で、頭を抱え天を仰ぐ夫の姿が見えるような気がした。

 

そして、大好きなお母さんとの最後のお別れができなかった娘さんは、「10歳で母親を亡くした」という自分の人生をどう引き受けていくのだろうか。

山内さんを亡くした後のご主人と娘さんの関係性はどうなっていくのだろうか。

レポートの行間からそんなことを読み取り、私は深いため息をついた。

そして、「どうすればよかったのか」というナースの問いかけに再び目をやった。

 

ナースは、「どうすればよかったか・・・どう声かけすればよかったか」と問うている。

しかし最初は、「どうすれば」という問うことに少々違和感があった。

「どうすればって言ったって、今はスマホだってあるんだから、ラインで連絡を取り合うとか、手紙を書いて届けてもらうとか、いろいろあるでしょうに」

「娘さんが来る時間を教えてもらって、せめてその時間帯は痛みのコントロールをバッチリするとか、そういうことってできないわけ?」

 そんなことが瞬間、頭を過った。

 

そして、「こんなレポートがあってね」と知り合いのナースに、意見を求めた。当然、「これはないですよね」という力強い言葉が返ってくるものと思って。

しかし、予想に反して、彼女は、「現場ではこんなんばっかりですよ」と小さく呟いた。急性期畑を30年歩いてきたベテランナースの偽らざる声であった。

「えっ?こんなんばっかり?」聞き返す私に、彼女は力強く首を縦に振った。

 

「もっとやれることがあっただろうに」

このレポートをそんな思いで読んでいた私だったが、「やれることはあったとしても、やれなかった現状があった」それを教えてくれているレポートとしてもう一度読み返すことにした。

ナースの思考や行動の行間を読むような気持ちで、もう一度目を通してみた。

 

山内さんが入院していた病棟は、急性期病院の消化器内科。高齢者が多く、終末期を迎えた患者さんも比較的多く入院する病棟であった。

ご多分に漏れず、認知症の患者さんも多く、「目が離せない」患者さんがほとんど。でも、抑制はしたくない。

患者さんの人権と安全を守りたいと思えば、勤務中に水分を摂ることも控え気味になり、トイレも我慢する。そんな「現場」に山内さんは入院していた。

入院し、一時的に症状は軽減したものの、肺炎を併発してからは状態は下り坂。

ナースは、もちろん何もしていなかったのではなく、懸命に山内さん苦痛緩和に取り組んでいた。病棟のナースのいったい幾人が夜間、山内さんの背中を腰を手足をさすり続け、溢れる涙を拭ったことだろう。

しかし、最後の結末は、何とも後味の悪い幕切れとなった。

「無理、無理。この病棟ではそこまでできないよ。仕方ないよねー」そう言ってしまえば終わってしまうこの体験を、このナースは、「どうしたらよかったのか」とレポートに記述をしてくれた。

きっと、思い出すのもつらかったに違いない。

ナースの行間を読むにつれ、このレポートは、「にもかかわらず、何かできることがったのではないかと現場から問題提起をしてくれた」と私も思いも変わっていった。

 

さて、それでは過酷な急性期病棟で、いったい山内さん一家に何ができたのかを考えてみたい。

レポートには、病気が判明して手術した初回入院のことは何も記載されていないが、初回の関りがその後の大きな鍵を握っていたような気がしてならない。

すい臓がんという只ならぬ病気がわかり、本人も夫も動転していたであろうが、家族の一大事を前にした娘さんを決して蚊帳の外に置くことなく、娘さんに病気を説明し、娘さんをどう支えていくかを両親や身近な人と相談する必要があっただろう。

そして、具体的に、どう話すか、コミュニケーションのアドバイスも必要としていたかもしれない。

そしてこの困難な課題をひとつひとつクリアしていくたびに、家族も私たち支える側も力を蓄えていくことは言うまでもない。

 

病棟のナースだけでは荷が重いこれらの課題を達成するために、専門看護師や認定看護師、精神科医師、ケースワーカー、心理士など、できる限り院内の資源を結集し、チームとしての介入を求めるべきだったのではないだろうか。

「親との死別が避けられない子どものケア」、「愛する子どもを遺して旅立とうとする患者のケア」、「親が終末期を迎えた教育期にある家族のケア」といったデリケートで介入が難しい事例には、さまざまな専門性をもつ職種のチームとしての関りが重要なことは言うまでもない。

常に、援助の対象は患者のみならず、娘と夫を含むこの家族全体であるという合意のもとに、「みんなで家族を支える」雰囲気が熟成され、スタッフ同士もまた支え合う関係性がつくれたなら、ナースの山内さん一家に向き合うパワーはより高まったように思う。

 

そんな「みんなで支え合う」雰囲気の熟成とともに、病棟看護師として果たすべき役割も見えてくるだろう。

医師と連携して、娘さんが面会に来る時間帯に、特に症状コントロールを念入りに図ることや、山内さんの整容を整えること、会えない時間帯にはスマホで連絡を取ること、あるいは最後に伝えたいことを手紙に残すことなど、いくつもできることは見えてきたのではないだろうか。

父親が娘との関係性に悩んでいるのなら、他の相談窓口の看護職や心理職による面接によって支援することも可能であっただろう。

 

当院には、専門看護師も認定看護師も、精神科医も心理士もいないという場合もあるだろう。そんな場合でも、まずはチーム内、病棟全体、係長、師長、ケースワーカーなど、可能な限り他者のサポートを受けられるように「SOS」を発信することが大切ではないだろうか。

ひとつのケースでうまくった体験がその後の事例の支援でも大きな力を発揮することはよくあることである。

 

このレポートは、記述されているそのシーンだけを切り取れば、「何もできなかった場面」である。しかし、できなかったにはできなかった、もっと根本的な問題があるのではないだろうか。

関りのスタートから、「子供を蚊帳の外に置かない」「その都度子供に病状を説明する」「困難な課題を家族とともに歩む」という支援の軸をもつこと、そして「チームで関わり、支え合う」という支援体制。

それを整える努力をしなければ、山内さん一家の慟哭の日々、そしてこのナースの体験は生かされないように思う。

 

一枚のレポートの持つ意味を今さらながら噛みしめている。

 

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